日本の陶磁器文化に魅了され、京都で陶芸を学びに中国からやってきた邢 天綺(シン・テンチィ)さん。2020年に日本で株式会社文芸向上を設立し、ODPのインキュベーションオフィスを拠点に、陶磁器を中心とした商品の企画デザインを行っている。会社設立の経緯には、新型コロナウイルス感染症の流行拡大が大きく影響したと語るシンさん。来日からこれまでの経緯と、現在の活動、そしてこれからの展望などを伺った。
株式会社文芸向上
「陶磁器の魅力は、その技法の奥深さ。土や釉薬、焼き方などをちょっと変えるだけで全然違う表現になります」と、目をキラキラ輝かせて語るシンさん。目の前に並ぶ器は、モダンなデザインのものから、華やかでかわいらしいデザインのものまで、表情はさまざまだ。
「焼き物を見るとついつい、これはどういう技法でつくっているんだろうと考えてしまうんです」。
中国でプロダクトデザイナーとして働いていた頃、仕事仲間と初めて日本に観光に来た。当時から仕事で陶磁器を扱うことが多く、中国の有名な産地である景徳鎮への出張も多かったというシンさんは、日本の焼き物文化に触れ、その多様性に驚いたという。
「日本には、例えば沖縄のやちむんと言われる土の風合いを活かした素朴なものや、京都の清水焼のように繊細で装飾的なものなど、産地によって特長はさまざまです。そして伝統を大切にしながらも、その殻を破って新しい表現に挑戦しようとしている作家さんもたくさんいらっしゃいます。そのような日本の焼き物文化の豊かさに感動しました」。
景徳鎮を含む中国の陶磁器生産地では、当時はまだ伝統が重んじられ、その中で新しい表現を探求したりチャレンジしたりする作り手は少なかったという。だからこそ日本に惹かれ、日本で焼き物の技術や表現を学びたいと思ったシンさん。2015年、京都の伝統工芸の専門学校に入学し、陶芸コースで2年間学んだ。
専門学校の卒業も間近となった2017年のはじめ、旅行で訪れた波佐見焼の産地、長崎県波佐見町で大きな出逢いが待っていた。
「波佐見焼を扱う商社の社長と出逢い、話をしているうちに意気投合したんです。最初は台湾の展示会で通訳をしないかという話だったのですが、最終的にインハウスデザイナーとして仕事をさせていただくことになりました」。
波佐見町は、佐賀県有田町と隣接し、ともに陶磁器生産を地場産業として発展してきたまちだ。長崎県と佐賀県にまたがる近隣の7つの市町と合わせて「肥前やきもの圏」と呼ばれるその地には、窯元と陶磁器製品の企画・卸販売をする商社が多く立ち並ぶ。シンさんが出逢ったその商社は、海外進出を含む新規事業に挑戦しようとしていたところだったという。若手社長はシンさんの陶磁器に関する知識の幅広さと、探究心に感心したのだろう。シンさんをデザイナーとして迎え入れ、シンさんはそこで商品のデザインだけでなく、企画から流通までの多くのことを学んだ。
「陶磁器製品は企画から小売店に並ぶまで、複雑な流通ルートがあります。生産工程は細かく分業化され、専門業者がお互いに支え合っているという日本独自の業界のしくみもあります。技術やデザインのことだけでなく、業界の事情を知ることができたのは貴重な経験でした」。
商社に勤めて3年が近づいたころ、「そろそろ中国に帰国して独立したい」との気持ちが大きくなったというシンさん。2020年2月末に満を持して退職した。ちょうど新型コロナウイルス感染症のニュースが不穏に世界を覆いはじめた頃だった。
「その時はまさかここまで深刻な事態になると考えていませんでした。4月初めの上海行き航空券を予約したのですが、世界の状況はどんどん悪化し、3月28日を最後に、中国行きの飛行機が完全にストップしました。中国に帰れなくなってしまったんです」。
そこで起きてくるのはビザの問題だった。帰国せず日本に残るためには、学校に通うか、会社勤めをするか、起業するか、その3つの選択肢しかなかった。「日本で起業することに迷いはなかった」とシンさん。事業拠点を探す中で見つけたのがODPのインキュベーションオフィスだった。
「元々は京都で学んでいたので、日本で独立するなら関西で、と考えていました。ただ、経営管理ビザの審査条件により、会社所在地が独立したスペースでなければ認められないため、コワーキングスペースなどは使えません。だからといって、最初から賃貸オフィスを借りるのはリスクが大きいですよね。ODPは大阪市が支援している公的な機関なので、初期費用も安く抑えられるということで、迷わず入所を決めました。入ってみると、いろいろな分野のクリエイターさんと知り合うことができたり、開催されるイベントやセミナーに参加できたり、設備や共有スペースが使えたりと、メリットがたくさんありました。入所して、本当によかったと思っています」。
2020年6月にODPに入所。その1ヶ月後の7月に株式会社文芸向上を立ち上げた。
現在、株式会社文芸向上では、自らが企画デザインを行った陶磁器製品の中国へ輸出卸売を中心に、日本でのオンライン販売、商社からの企画デザインなどを受注している。特に経済事情のよくなった中国では、一般家庭でもテーブルコーディネートを楽しむ人が増え、質の高いテーブルウエアの需要が高まってきているという。
「以前は、家庭用品に品質やデザインを求めるのは、一部の富裕層の人々だけでした。でも今は、多くの人が自分のライフスタイルに合わせて、好きなもの、おしゃれなものを選ぶ時代になりました。また、中国ではEC化が進み、私が卸している商品もほとんどがオンラインで販売されます。販売の際には、小売店が自ら産地などを調べて商品にストーリー性を加え、付加価値を与えてネットで紹介してくれます。マーケティングのあり方も、中国ではここ数年で大きく変わってきましたね」。
これからは陶磁器だけでなく、他の素材や異素材とのコラボにもチャレンジしたいというシンさん。現在、アクセサリー作家と陶芸家のコラボ商品のプロデュースに取り組んでいるところだ。「異素材が加わっても、やっぱり陶磁器が好き」と語るシンさん。焼き物の魅力をこう語る。
「基本の技術は太古の昔から変わらないのに、表現や技法は、時代とともに少しずつ進化してきているのが焼き物の魅力。さらに完成の予測ができないところも、おもしろさの一つです。こんなものが焼き上がるだろうと思っていても、実際に窯から出してみると全然違うものになっていることもあるんですよ。だからこそ探求が尽きないんです」。
社名の「文芸向上」には、大好きな文化と芸術、そして尽きない向上心という意味を込めた。いつか中国と日本の文化交流イベントや、日本の作家と中国の作家のコラボ作品などができたらと考えている。
「国境を越えて、みんなが楽しいと思うことを提供したい」と語るシンさん。このパンデミックが収束した暁には、きっと新しい景色を見せてくれるに違いない。
取材・文 : 岩村 彩((株)ランデザイン)