実績と経験は、地道に頑張り積み重ねることだけでしかつくれない。それが実力となり、信用が生まれ大きな仕事がまわってくるようになる。キャリアのステップアップには欠かせない鉄則だが、それを実現するにはたゆまない努力が必要だ。 店舗設計を数多く手がけ、そのキャリアは40年を超える、K_設計工房の中村勝実氏の道のりは、そんなことを実感させられるお話。
K_設計工房 中村 勝実 氏
ひとくちに店舗設計といっても業種によっても多様で、空間に求められるものも時代とともに変化する。この世界に入って40年近く、好景気も不況も体験してきた中村さんによれば「もちろん時代の流れを汲んで取り入れていきますが、これまでの経験にもとづくプラスαの提案も大切です」だという。
「ジャンルでいえば飲食系中心でやってきましたが、この仕事が好きですね。なぜかというと遊ばせてもらえるから。飲食店ってまずは美味しい料理、そして気持ちのいい接客が求められますよね。さらに雰囲気のある空間だとお客さんに満足してもらえる。そのための空間での造作提案が“遊び”であり、飲食系では快く取り入れてもらえるんです」
それはブランドイメージが固まっているフランチャイズの店舗であっても同じだとか。 「もちろん基本的なところは同じですが、それでも入り口まわりのディスプレイを自由にできたり、自分らしいプラスαの要素を注入できる面白さがあるんですよ」
とはいえ景気にかかわらず、いつの時代にもコストとのせめぎあいがある。「これからも増えると思いますが、店舗はコストを抑えるために居抜きで使われることが多い。実はこれが大変で。ラーメン屋のあとに中華料理屋を開くのはカンタンそうに思うでしょ。でも厨房のサイズを広げないとダメだったり、動線を工夫したり設計の時間が余計にかかるんですね。新店舗なら比較的自由にレイアウトできるのですが」
これまでを振り返っていちばん楽しかったと語るのは、ある居酒屋が多店舗展開するための立ち上げ。「ベースのプラン案をつくって、それを発展させたいという話でした」。コンセプトからの考えるベースのプランニングは楽しい。個性豊かなオーナーたちの熱い想いをしかと受けとめ、イメージを形にしていくこと。それこそが醍醐味。「一回目の打ち合わせが終わって、“さてどんな提案をしようか”と頭のなかで考えているときがいちばん心踊りますね。そしてある程度、話がまとま るとそこから先は肉体労働になるので、大変なんですけど(笑)」
設計の仕事を意識したのは高校の頃だ。山口県にある実家は建具などを制作する木工所。将来的にここで働くにしても店舗関係などのスキルがあったほうがいいと、大阪のインテリアテザイン専門学校へ進学する。「私が若い頃は、石を投げたら建築関係のデザイナーに当たると言われた時代。'80年代は業界の景気もよかったので」
就職に関してよく言われたのは「事務所は何ヶ所かまわれ」ということ。「小規模な設計事務所で、いろんなことをやらせてもらえるところを何社か務めて経験を積めば、勉強にもなるし自分がめざす方向性も見えてきますから」。その教えを守り、まずは4~5人ほどの店舗の設計事務所、次に20人規模の自社で什器製作できる工場を所有する会社で設計を担当し、さらに3名ほどの設計事務所へ。「それぞれの会社で2~3年ずつ経験を積んで、一時期はフリーランスでやっていたんです」
クリエイターすごろくであれば、普通ここらへんで独立する時期。しかし中村さんはそうしなかった。ちょうど結婚のタイミングがあり、妻の親が不安定なフリーランスに難色を示す。「私も鼻っ柱が強いから、それなら業界で五本の指に入る大企業に就職するからといって、結婚を承認してもらったんです(笑)」。
そして約束通り、大手設計施工会社へ。
ここでバブル期の到来。10年以上務め多忙を極めたが、その終焉とともに会社が倒産。今度は東京に本社を構え、大阪支店を拡充させたい企業から声がかかった。この会社にも10年以上務める。「ここはフランチャイズの飲食関係をメインで手がけており、大手企業の店舗づくりを勉強できました」
当時は驚くことに、西日本全域の店舗設計をひとりで任されていたという。ピーク時には月に15軒の設計を同時進行させたことがあるとか。「今日は広島、明日は鹿児島、明後日は沖縄なんていう、とんでもないスケジュールも」。このハードワークのおかげで自信はついた。「当時は自分ひとりで3人分の仕事をこなせると自負してました」。あの頃がんばれたから、今の自分があるとも。
独立したのは12年前、50歳のときだった。学生時代から「将来は独立を」と、ファーストネームの頭文字「K」を使ったロゴも考えていた。それがようやく使える日がきた。独立後は以前からつきあいのあるクライアントや知り合いから次々と仕事が舞い込み、今まで営業はしたことがない。質の高い仕事が営業になり、新たな仕事を呼びこむ理想的な状態。
「若いときに独立したとして、最初はご祝儀的に受注があるでしょう。でもクライアントが望むクオリティに達するだけでなく、それ以上の情報なり技術なりを渡さなければ、次はない。仕事に対しての処理能力が、先方を上回ってなければならないんです」。中村さんは経験と実績でそれに応えることができる。
こんなこと言ったらうぬぼれていると思われるかもと前置きしながら、会社勤めをしていた頃から“自分が一番だ”と思っていたと語る。「それくらいの想いがあった。デザインやアイデアでは自分より優れていても、それを実務として完成まで持っていけるか。そっちのほうが体力的に大変なんですよ」。設計においてはデザインやアイデアに注目がいくが、それをいかに機能させるかという実務の重要性はあまり語られることはない。
また大手企業の下請けをやるということは、ある程度の方向が決まったうえでの処理係になってしまうとも。早い段階での独立だとこのポジションに陥りやすく、なかなか抜け出せない。ある程度、仕事がまわっているときはいい。しかし、めまぐるしい変化の時代では、ここに至るまで自分をどれだけ鍛えてきたかがものをいう。中村さんはながらく大手企業のプロジェクトでリーダーとして活躍してきた。そこまで上りつめての独立だから、現在のようなスタンスで仕事が続けていられ るのだ。「まわりからは独立が遅かったと言われますが、自分ではそう考えてない」。その言葉には重みがあった。
結婚してから今もずっと南港在住だという中村さん。最近ではODPのオフィスにくわえて、新たな拠点を築きつつある。それは昔から海釣りが好きでよく通っていた和歌山。まずは一昨年、海の近くに家を購入。「これは海で遊ぶための基地です。土間やへっついのある民家を手に入れて、少しずつDIYをはじめているところ。外壁も塗りなおし、庭の手入れをしてピザ窯をつくってと、やることがいっぱいで楽しいですよ」
それと昨年、今度は同じ和歌山の山側に中古住宅を購入して、仕事ができる環境を整えた。
思えば実家も海の近く。結婚してからは南港で暮らしてきた。休みの日には釣りやカヌー、キャンプを楽しむ日々。畑で妻が丹精込めてつくる新鮮な野菜も、はじめての収穫をおこなったばかり。プライベートも充実し、アフターコロナの時代へまだまだ走り続ける。
クリエイターズボイス公開日 : 2021年7月28日
取材・文 : 町田 佳子